my favorite music

ROCK DE NA SHIT!!って感じのこのページ。

お気に入りバンドなんかを洋楽邦楽その他に分けて紹介します。

Rock創世記からの私的なRock観も記憶を辿りながらちょくちょく気長に更新して行こうと思います。

 

私的ROCK史

         第一章 Rock and Roll誕生!!

ロックンロールの誕生には諸説色々あるみたいですが(表題のように私的なロック史なのでこれからも色々皆様とは違うとらえ方の所が多々あると思いますがご了承を)

先ずはロックンロールの曲として初めてヒットしたと思われるのがビル・ヘイリー&ヒズ コメッツの“ロック・アラウンド・ザ・クロック”であると言われている。この曲はグレン・フォード主演の「暴力教室」と言う校内暴力を描いた映画の主題歌でこの映画のヒットと共にこの曲も若者を中心に広く支持されヒットしロック・アンド・ロールの存在を声高に世に知らしめる事になる。ただ、彼がロックスターになる事はなかった。単純に彼のルックスが白人の太った中年でピンカールされた前髪は若者たちは真似したくなる姿ではなかった様だ。

そんな創世期に登場したのがトラック運転手だったエルビス・プレスリー。母親への誕生日プレゼント用に4ドルを支払いサン・スタジオにて自主盤を録音する。後のサン・レコード創設者のサム・フィリップスがたまたまその録音を聴き売り出し前だった地元のミュージシャンであったスコッティー・ムーアやビル・ブラックらとセッションを行う事に、そのセッションの中で録音したものを地元ラジオ曲に持ち込み2日後には地元メンフィスではローカルヒット、ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていたらしい。ラジオから「エド・サリバンショー」や「トミー・ドーシー・ステージ・ショー」でのTV出演で黒人のR&Bを歌い黒人のように妖しく踊る姿は保守派のPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられ時には上半身だけの放送になったらしい。その放送を観た若者は同世代の若者に興奮し夢中になった。このプレスリーの登場こそがロックンロールの誕生と言えると思う。

プレスリー登場以前の黒人ロックンローラーの代表格2人もここで紹介しておきたい一人はロックの詩人こと「ジョニーBグッド」で知られるチャック・ベリー。もう一人は偉大なる変人、奇行の王様ことリトル・リチャード、彼はここでは書ききれない位の面白い人物です(笑

ゲイでドラック中毒者でキリスト教伝道者になったりゴスペル歌手になったり映画、TVアクターになったりとにかく変人、存在だけでロックンロールです。しかし、初期の「トゥッティ・フルッティ」「のっぽのサリー」「リップ・イット・アップ」「スリッピン・アンド・スライディン」「ルシール」「ジェ二・ジェ二」等々名曲は数え上げたらきりがない位に出てきます、プレスリーやビートルズにもカバーされその楽曲の不良っぽさやアウトサイダーぶりは後のロックンローラー達に多大なる影響を与えてる事は明白である。

Rock and Rollの死とは

プレスリーの登場以降次々に白人、黒人関係なくロックンローラーが誕生する事になる。バディ・ホリー&クリケッツ、エディー・コクラン、ジーン・ビンセント、ジェリー・リー・ルイス、リッチー・バレンス等が人気者となっていきシーンはこのまま続きそうに思えるが・・。

1958年人気絶頂のプレスリーが軍隊に徴兵され西ドイツの部隊へ2年間の間配属されシーンから姿を消すことになり同年ジェリー・リー・ルイスが重婚のスキャンダルでシーンから干され、翌年の1959年オハイオ州のツアー終了後リッチー・バレンス、バディ・ホリー、ビッグ・ホッパーの三人を乗せた飛行機が墜落、パイロットも含め死亡、又この同じ年、奇人リトル・リチャードが突如引退表明しキリスト教伝道師に、また、色濃く残る黒人差別の影響かチャク・ベリーが「売春婦移送法」と言う当時ほぼ死法と言われていた罪で2年間の服役で投獄。さらに翌年の1960年にエディー・コクランが自身の運転による事故で死亡、同乗していたジーン・ビンセントも重症すると言うような事が1950年代末期に立て続けに起こる事になり、中でも17歳という若さで亡くなったリッチー・バレンスの事故は同時に3人ものロックスターが亡くなったという衝撃もありこの日を“ロックの死んだ日”と言う人も多い。

           第二章 新たなる波

Rock史を語るうえで避けて通れない存在がアメリカでロックが死んだと言われていた頃はるか海の向こうUKで動き始めます、ご存じビートルズです。ビートルズは自身も他のニュージシャン達に大きな影響を受けていますが彼達もまた後のミュージシャン達に多大なる影響を与えていくことになります。メジャーデビュー前後はかなりアメリカのロックンロールに影響を受けたみたいでポールが初めてジョンに逢った時にエディー・コクラン、ジーン・ビンセント、リトル・リチャードの曲をメドレーで披露したと言われています。メジャーデビューに合わせおなじみのお揃いのスーツにマッシュルームカットと言ういでたちが誕生したそうで、当時のメンバーでも賛否の意見があったみたいです。ジョンとポールが作り出す新しいRockにイギリスは熱狂しついにその波は1964年に音楽産業の一大マーケットアメリカに上陸する事になります。アメリカでも熱狂的にビートルズは迎えられJFK空港には一万人の若者で埋め尽くされたそうです、その頃のアメリカはスター不在の為ロックンロールを一般大衆向けにソフトに、耳触りのよい音楽へと変えていき商業的には成功を収めていた(その時に活躍していたのがコニー・フランシス、ニール・セダカ、ポール・アンカ等)一方白人にR&B(R&R)を奪われた黒人達は黒人音楽専門レーベルモータウンレコードが成功を収めるスモーキー・ロビンソン、スティービー・ワンダー、シュープリームス(ダイアナ・ロス)などスターを生み出しモータウンソングを世に送り出すこの頃から黒人R&Bはソウルミュージックとも呼ばれるようになる又ロス・アンジェルスでウエストコースト・ロック、サーフィン・ロックをビーチ・ボーイズが誕生させるがティーン・エイジャー達の代弁者になるまでにはなれなかったみたいでRock=不良、Rock=ティーンの代弁者はイギリスのビートルズが引き継ぐようになる。後にこの成功はブリティシュ・インヴェイジョン(英国の侵略)と言われるようになりこの瞬間にRockがアメリカの若者の音楽から世界の若者の音楽へと変わったとも言われる。その頃イギリスではビートルズの成功を見て次々にバンドが各レーベルからデビューする(この頃のバンドを総称してリバプールサウンドと呼んだりする)、特にビートルズをオーディションで落とし世紀のミスジャッジを犯したとされる英デッカレーベルはビートルズに対抗すべく契約したのがローリング・ストーンズである。故ブライアン・ジョーンズをリーダーにワイルドなボーカルが持ち味のミックジャガー、ラフでルーズなギターのキース・リチャーズを中心に「俺はむしゃくしゃするんだ~」(サティスファクション~)と叫びRock=反抗する若者の代表者の地位を確立させていく。一方のアメリカは若者の代弁者として新たにフォークというジャンルで支持を得て行く事になるボブ・デュラン、バーズなどが支持された、特にボブ・デュランはフォークと言うジャンルを開拓した立役者で後のフォーク・ロックにも影響を及ぼすことになる。その社会風刺的な詩の世界はビートルズのジョン・レノンにたいしてボブ・デュランは「君たちの音楽には主張が無い」と言ってのける勢いがあった。

        第三章 アメリカの光と影そしてRock

1960年代南べトナム解放民族戦線がべトナム共和国(南ベトナム)政府軍に武力攻撃を開始いわゆるベトナム戦争で1975年のサイゴン陥落を迎えるまでこの悲惨な戦争は続くのである。若者たちはこの戦争の大義の見えない泥沼化に戦争の意味について強く疑念を噴出させて行く事になる、「一体、何のために戦っているのか・・」徴兵制度で戦場に送られていく若者たちの「不安」「恐怖心」を紛らわせる為にアメリカ政府は精神安定を目的としたドラッグの支給を行っていく。のちにこのドラッグが国内に広く波及、そのような背景で花開いたカルチャーがサイケデリックムーブメント、フラワームーブメントでその中には勿論、若者文化のRockにも深く影響を及ぼす様になる。サンフランシスコを中心に髪や髭を伸ばし極彩色の洋服を身に纏いヒッピーと呼ばれる人たちが登場、マリファナやLSD等いわゆるドラッグによって引き起こされた幻想的精神世界感で独自の音楽世界を築いていく、この文化に支えられ文化を引っ張って行った象徴的なミューシャンがジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、ドアーズのジム・モリソンだろう。ドラッグ等による状態もあったかもしれないがヒッピー・ムーブメントの自由でやりたい放題なステージングは時に警察と衝突する事も少なくは無くしだいにエスカレートして行きミュージシャン、観客共にドラッグ、公然猥褻などで警察との衝突を繰り返すこととなる。この頃からRock=「反大人社会」から「反社会」「反権力」と言う図式が確立され始めてきた。このムーブメントはビートルズにも多大な影響を及ぼしサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドを生み出すことになる、混沌とした60年代の音楽シーンを象徴するかのようなアルバムでドラッグ文化、世代間断絶、インド的世界観、ジャズなどの世界観を一枚のアルバムに音楽として描ききり、あらゆる文化人(ジャンルを問わず音楽関係全般や多ジャンルの有識者等)から絶賛される。ロックンロールと言う音楽文化からロックと言う芸術文化に変わったのもこのあたりだろうと推測する。時を同じくして西海岸と位置的に反対の東のカルチャー発信はニューヨークから起こっていた、しかけたのはアンディ・ウォーホールで身近にある缶やお札などをモチーフにシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するような新しいアートは大衆に広く受け入れられポップアートと名付けられた。ウォーホールは1964年にNYにファクトリーと呼ばれるスタジオを構えアートの分野を多方面へと展開していくようになりそのファクトリーにはミック・ジャガー、ルー・リード等のミュージシャンが作家やモデルなど様々なアーティストの集まる場所となるのだがここで注目したいのがビートルズとローリングストーンズの方向性の違いが面白い、ジョンとミックは互いのバンドの中心的存在であるが後にこの選択が互いのバンドの未来を予想しているかのように思える。又ウォーホールはルー・リードの在籍バンドであるメジャーデビュー前のベルベット・アンダーグラウンドに ファクトリーに出入りしていた女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させベルベット・アンダーグラウンド・アンド・ニコでジャケットデザインを担当し芸術としてのロックの見せ方や聴かせ方をプロデュースし前衛的な音の実験が試みられたが結果的には若者はおろか大衆にも支持される事無く「ロックの芸術性を模探した壮大なる実験」はここでいったん幕を下ろす事になるがこのロックとアートの融合は後のロックシーンにおいて多大な意味と影響を及ぼす事になる。一方の西海岸発のムーヴメントはあるイベントでピークを迎えて行く、史上最大の「愛と平和と自由」のロックフェスティバル「ウッド・ストック」である、40万人もの観客を動員し3日間に渡って行われたフェスは成功と引き換えに企業や資本家、レコード会社に商業的発想を気付かせる結果になった。翌年のイギリス、ワイト島で行われた「愛と平和と自由」のロックフェスティバルは60万人もの観衆を動員したが少々高めの入場料を取る事に対し(ウッドストックは無料)裏切られたと感じた観衆は暴徒と化し「ロックは反商業主義だ!」「資本主義の豚野郎!」の罵声はギャラを受け取るミュージシャンとの間にも摩擦が起き無秩序状態のままのフェスティバルは終わってみるとそこには60万人分のゴミと汚物と破壊された施設の残骸が残されていたと言う、それはまるでラブ&ピースの崩壊と夢の残骸でもあるかのように思う。それまでシーンを牽引してきたジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリンはこのフェスの年に死亡、翌年にはジム・モリソンもこの世を去る共にドラッグの過剰摂取によると言われているが真相はいまだ闇の中でフラワームーブメントは敗北感とでもいうべき感覚が広がる中3人の死にとどめを刺された形で終焉を迎えて行くことになる。フラワームーブメントが去ろうとする時期に共に、反戦や平和を歌っていたフォークがボブ・ディランによりアコースティクギターからエレキギターに持ち替えられフォーク・ロックと言う新たなステージに昇格して行く時期もこの頃である。

アメリカの1960年〜70年に掛けてはアメリカの繁栄の光の部分とベトナム戦争と言う陰の部分が国中を覆っていた気がする、その独特な雰囲気のなかRockも独特な進化を遂げて行くがアメリカで誕生した純粋なロックンロールはこの時期にロックンロールでなくなってしまったのかもしれない。後に出てくるリバイバルブームも回顧主義的な物でしか無い様に感じてしまう。

         第四章 新たなるRockの幕開け

1960年~1970年代は前の章で書いたようにアメリカが大きなうねりの中にあった時代で世界の大国アメリカの情勢は否応無しに世界に影響を及ぼしファッションや音楽も勿論その渦の中にありRockは様々なジャンルを生み出し後のシーンの方向性を示す道標や分峡点をもこの時期に誕生させるまさに現代Rockの創世記の時代であった。

グラムロックが誕生したのもこの頃だとされる、アメリカのアリス・クーパー、イギーポップがベルベット・アンダーグラウンドからの流れを過激な方向へと昇華させていった、イギー・ポップは常軌を逸したステージングで時には客席にダイブ、半裸でピーナッツバターを塗りたくったり、ステージ上にガラス片をばら撒き裸でその上を転がりまわったりとやりたい放題でアリス・クーパーは大蛇を首に巻きギロチンパフォーマンスをしたりおどろおどろしいホラーメークを施していたりと後のロックシーンで見るステージパフォーマンスを誰よりも早くやっていた。イギリスではデビット・ボウイ、T-REXのマーク・ボラン、オジー・オズボーンのブラック・サバスが登場、デビット・ボウイは男か女か?人か異星人か?と言う様な出で立ちで登場し人々の度肝をぬいた。マーク・ボランの演奏は官能的でケバさではなく淫美な感じでT-REXの名前をもじってT-レクスタシーなんて呼ばれてたらしい、オジー・オズボーンは詩、サウンド共に重く、暗くダークでホラー感たっぷりのメークでどこか黒魔術的な雰囲気は一種独特で異彩を放っていた。特にこの様なイギリスでのこの流れをグラム・ロック(グラマラス)と総称されシーンを形成していく。

グラム・ロック的な魅せ方、聴かせ方に拘らず演奏そのものの技法や上手さに拘るバンドも必然的に出てくる事になる、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジである。3人は在籍バンドが同じヤードバーズと言うバンドで初代(正式には二代目)クラプトン、二代目ベック、三代目ペイジという具合に今やギターの神様と言われるミュージシャンが活動し始めた。ギターの音色が泣き、叫び歌声を発した瞬間かもしれない、のちにクラプトンはクリーム、ベックはジェフ・ベック・グループ、ペイジはレッド・ツェッペリンを結成し各自ギターを唸らせ続け新しくハード・ロックとなるシーンを牽引する事になる。そのハードロックの礎を築くのがレッド・ツェッペリンと、「早弾きの神様」リッチー・ブラックモア在籍のディープ・パープルである、このシーンの主役はギターと言っても過言でないと思うボーカルはバンドの顔ではあるのだがこのシーンのバンドは「より上手く」とか「よりハードにやかましく」や「より速く」など各バンドのギターに得意な分野みたいなものがあり上手さ、速さ、やかましさを競い合っていた。アメリカでもエアロスミス、KISS等がデビュー、イギリスのハードロックに比べショーアップされたステージングは暗く沈んでいたアメリカの雰囲気を一掃してしまうくらいのパワー漲るものだったそれは今でも続くいい意味でのご陽気さやある意味での馬鹿さのあるアメリカがそこにはあったように思う。イギリスではこのアメリカの感覚とは正反対の動きがピンク・フロイドの出現とともに出初めプログレッシブ・ロックなるシーンも登場しロックの表現方法の多様化がここまでになったのかって言う位のほうまで行っちゃった時代でもありました。多様化と言うとイギリスは演奏、技法、新たな楽器など音楽面での多様化の他に文化、カルチャーとりわけファッションと結び付いた方向のジャンルも多種多様かしていきMODSとロッカーズの抗争等は後の映画「さらば青春の光」などでも取り上げられそのエネルギーは次なる波の到来を予感させるものであった。

          第五章 異端児生まれる

アメリカ、ニューヨークでその産声はあがった上記の様な音楽的発展にフラストレーションを抱えていたミュージシャン達がその難解な演奏技法や詩や世界観にひとつの答えとしてもっと衝動的でストレートで演奏技術なんてお構い無しな音楽パンク・ロックを生み出した。その拠点とされていたのは「CBGB」というライブ・ハウス、ラモーンズ、ニューヨーク・ドールス、パティ・スミス、テレヴィジョン、ブロンディ、トーキングヘッズなどが自分達のロックを信じメインストリームで持て栄されてる難解に進化したロックに反旗を翻すごとくシンプルでストレートなロックンロールをかき鳴らし続けた。そんな中ラモーンズを筆頭にイギリス遠征のツアーが行われニューヨークで産声を上げたパンクは海を越えていった。アメリカ同様、難解で長ったらしいプログレッシブ・ロックや不景気で職にあぶれ行き場の無いフラストレーションをもった若者に一人の男が導火線に火をつける。仕掛けたのはイギリスでヴィヴィアン・ウエストウッドと「Let it Rock」を経営していたマルコム・マクラーレン、渡米中のニューヨークでニューヨーク・ドールズを気に入りそのままマネージャーをかってでるもバンドはほどなく解散しある思いを胸にイギリスに帰ってくる。「Let it Rock」を「SEX」に改名しニューヨークのパンクシーンで目にしたファッションなどを展開していく一方で親交のあったバンド、ストランド(スティーブ・ジョーンズ、ポール・クック在籍)をパンクバンドでデビューさせるべくプロデュースしていく、新たに「SEX」の店員グレン・マトロックとオーディションでえらばれたジョニー・ロットンが加入バンド名「SEX PISTOLS」がここに誕生。デビュー当初からのイギリス政府、イギリス王室、大手レコード会社等の体制や権威を批判ではなくこけ下ろすと言う言動はメディア、マスコミにも見境無く「FUCK」、「SHIT」の連発で一躍注目の的になり又、マルコムがスタイリングしたと言われるファッションはインパクトが凄く逆立てた短い髪ボロボロに破いたシャツに安全ピン、ロットンのTシャツには「ピンクフロイドが嫌いだ」と書かれていたと言う、バンドが注目を集めるようになる頃グレン・マトロックが脱退、ライブに出入りしていたシド・ヴィシャスをスカウト、ここに楽器のできないベーシストが生まれる。シドの加入後スキャンダラス性は加速しロンドン・パンクの頂点へと昇り詰めていく。

         第六章 リアルなRock史へ

前回の章までは正直、生まれてはいるもののRockと言う物にあまり興味と言うか関心を持って聴いて無かった時代で、オイラがRockに目覚め始めたのは70年代の終わりから80年代の初めにかけて位でここからがオイラのリアルなRock史になります。

Rockに興味と言うかジャンルに関係なく音楽を聴いていたのは誰の少年期でも同じだと思う。そんなRockも知らない少年でもプレスリー、ビートルズ、モンキーズ、ベンチャーズ位は知っていてプレスリーはもみあげオヤジ、ビートルズはおかっぱグループ、モンキーズは漫画、ベンチャーズはテケテケ~の人って言う位にしか知らなかったがある事件でRockに目覚めていく事に・・・。1980年12月8日ジョン・レノンが5発の銃弾を浴び殺害される。テレビでこのニュースを知った時はJFKの暗殺場面が脳裏に浮かんだ・・。テレビではジョンを追悼する人々、泣き叫び彼の死を悲しむ人々の映像が流れていた、ほどなくして深夜にジョンを追悼する特集番組が、彼の生い立ちやビートルズ結成から日本来日、ビートルズ解散、オノ・ヨーコとの出会い彼が音楽シーンに与えた多大な影響みたいな事が主な内容だった記憶が・・。中でも印象に残ったのがビートルズデビュー前の俗に言うハンブルク時代の映像。動く映像はなく白黒の写真でリーゼントに皮ジャンの映像にノイズ混じりの音声テープから流れてた「のっぽのサリー」が無茶苦茶格好良かったのを今でも鮮明に覚えてる。思えばこれがオイラとRockの出会いみたいなもんだったかもしれない。ガキのオイラはレコード買う金なんか持ってなかったのでレンタルレコードの麗紅堂って言うレンタルショップに行ったが「のっぽのサリー」の曲が入っているビートルズのレコードが見つけれず店員に尋ねて勧められたのがリトル・リチャードのベストアルバム、確かにのっぽのサリーが入っている!!しかも店員はこちらが元祖の曲だと言う情報も教えてくれた。さっそく家へ帰ってプレイヤーで聴いてみると・・・。ガキには濃すぎるブラックミュージックではないですか!!とにかくテープにはダビングしたがしばらく聴いてなかった。そして小学生のある日テレビで衝撃のCMを観てしまう・・。マクセルカセットテープUDⅠのTHE MODS。衝撃以外のなにもなかったCMのキャッチコピー「音が言葉より痛かった」の通り何か衝撃みたいなのが走ってCMに出てたMODSのビジュアルの格好よさに心底憧れました。ここら辺がオイラの音楽的ルーツになってるんだなぁ~と改めて感じます。って言うか未だに聴き続けてます。時代は80年代に入り音楽業界にも新たな波が沸き起こります。

この80年代という時代が一種独特の時代で今から思うといろんな意味で凄い時代を体験できたと思う。イギリスではセックスピストルズが短かすぎる活動を終えてポストパンク時代に突入していく。ピストルズ無きあとパンクは様々な変化を遂げ各シーンに溶け込んでいく者も出てくる。The Jam,The Clash, The Damned,P.I.L等ピストルズのそれとは違い多ジャンルの要素を取り入れ名曲、名アルバムを発表した時期も奇しくもこの時代になる。特にクラッシュのアルバム「ロンドン・コーリング」は個人的大名盤でこれからのロンドンパンクの方向性を決定した様に感じるのはオイラだけだろうか?このアルバムの中にはパンク、R&R、ロカビリー、スカ、レゲエ等多ジャンルの色々な音楽をクラッシュ風味なパンクアレンジで見事に仕上げられている。

ピストルズ解散後マネージャーのマルコム・マクラーレンは第二のピストルズを画策しアダム・ジ・アンツを送り出す。時まさに80s'、時代は新たなる時代MTV時代に突入し音楽が聴く音楽から観て楽しむ音楽に変わる音楽業界の一大変革期でもありました。

MTVとはアメリカの音楽番組専門のケーブルテレビで放送開始は1981年ビデオクリップを中心に24時間音楽を放送し続けるという音楽専用チャンネルであらゆるジャンルのミュージシャンに音楽の表現様式として多大な影響を与えた事は間違い無い。オイラなんて音楽番組といえばザ・ベストテンやザ・トップテン、夜のヒットスタジオしか見たことなくちんけなセットの前で口パクで歌う番組しか知らなかったときに深夜でMTVやベストヒットUSAを観た時の衝撃は感動物だったのを覚えてる。

この頃同世代の皆はアイドルブーム全盛期で学校ではたのきんトリオだの聖子ちゃんなんかの話ばっかりでRockやましてRockabilly、Punkなんて事を同級生と話した事があまり無かった、そんな中俺の中で突然現れたのがBlackCats,ジャパニーズロカビリーの幕開けだった。原宿の通称キャットストリートの服屋さん「クリーム・ソーダ」の従業員で結成されたこのバンド。仕掛けたのはオーナーの山崎氏で服は勿論自社のブランドでオールディーズのロカビリー、R&Rファッションで身を固め髪はリーゼント、奏でる音楽はオールディーズ&ロカビリー、これに当時の不良は飛びついた感じでちょっとしたブームになる。地方の中、高生が東京に修学旅行に行った時のお土産の定番はクリームソーダのドクロの長財布かドクロマークのクシってな感じです。

東京では原宿の歩行者天国でロックンローラー達がラジカセからR&Rを流し踊り狂ってたのもこの時代。この80年代初頭の原宿の歩行者天国通称"ホコ天"ブームは日本独特のカルチャーに変貌していき竹の子族、ブレイクダンサー、ローラースケート、パフォーマーまで様々な文化に昇華していき後の"イカ天"へと発展していき96年の原宿前歩行者天国全面廃止になるまで若者文化発信、発展に大きく貢献していた。

ここで80年代のこういった文化を私的ROCK史に書いてるのは言うまでもなく前章迄で海外のRockシーンにおいて当時の若者のカルチャーや社会環境等に音楽、取り分けRockが少なからず影響を受けその地域独自の変化や発展を遂げてきた事にも触れてきたがこの80年代は私的Rock史においてオイラがオンタイムで時代の流れや変化を体現してきたのがちょうどこの時代であり、少なからずこの時の体験がオイラのRock史に影響を与えている。この時代より前の音楽も、最新の音楽もオイラの中ではこの時代のフィルターを通して音楽を観たり聴いたりしてしまう事を今更ながら書き加えておきます。

ジャパニーズロカビリーの興奮真っ只中にMTVでまたしても衝撃のバンドを目にすることに・・・。そのバンドは"STRAY CATS"音楽は勿論の事そのルックスが格好いい~って感じで夢中になりましたね。今では

ブライアン・セッツァー・オーケストラとしてビッグバンドを従えて

グラミー賞まで獲得する活躍ぶりでまだまだ健在をアピールしてくれましたね。

80年代海外ではこのSTRAY CATSの活躍でネオ・ロカビリーが一躍注目される事に。ちなみに、ネオロカビリーとは50年代に流行ってたロカビリーを80年代当時のパンク、ニューウェーブなんかを取り入れて現代風味にアレンジしたジャンルで80年代も現代もネオロカやパンカビリーなんて呼び方をしてるがこの二つの呼び方やカテゴリー分けには結構バラツキというか幅が広いというかこいつらはネオロカでこいつらはパンかビリーで・・。ってな感じで色々あると思いますがここは私的Rockなんで当時呼んでた呼び方や言い方で書いて行きますんでごちゃごちゃになってる所が有ると思いますが気にしないで行っちゃいます〜。

話戻って当時の海外では第二のSTRAY CATSなんて狙ってたかどうかは解らないが〜CATSって言うバンドがたくさんでてきてた(笑

その頃のオイラはテレビで入ってくる情報はほとんど無く輸入レコード屋さんでバンドの名前、〜CATSって書いてたり、ジャケット写真がそれっぽかったり(コレ重要)でネオロカ系バンドを必死になって探したりして情報を入手してた。この頃、中学生だったオイラはお金も有る訳無く片っ端から気になったレコードを買える訳も無くこの頃に見た記憶が有るレコードなんかを未だに中古レコード屋なんかで必死になって探してたりします(笑